ALOHAFARM HISTORY (とっても長いよ!覚悟してね!)
私たちは、青山やインターネットでは甘酒屋さんや味噌屋さん。
草加では八百屋さん。
と思われているかもしれません。(笑)
長い、長い物語ですが、これを読んでいただいて、
あ、そうなんだ!販売だけじゃないんだ!
なんて知って頂けたらうれしいです。
※ちなみにすべてノンフィクションです
« はじまり »
ALOHAFARMは埼玉県草加市の化粧品を扱うSHOPの一角で、
大きくなってしまったほうれん草と薄い色づきのにんじんと
小さなワゴンの野菜販売からはじまりました。
長久保「あーこれこれこの写真。ここからアロハファームは本当にはじまったんだよね」
横川「ずいぶんとちいさい売り場だったねー」
小宮「お客さんも珍しそうに見てましたよねー最初」
« 長久保の夢?? »
小宮「そういえば、最初の始まりって恵理さんの小さい時の夢からはじまっているらしいですね!」
横川「そうそう、今や会社だけど、最初は趣味というか遊びだからね。」
長久保「会社を起業するとは想像していなかったけれど、夢がどんどん夢以上に膨らんでおいらは幸せいっぱいだよー」
1965年
アロハファームの代表長久保は、東京生まれ、横浜育ちのいわゆるシティガール。
農業とは全く関係のない生い立ちでした。
都会で育った長久保は、夏休みになると仲の良い友達が田舎に帰省していくのを
うらやましいなと感じていました。
そして、幼い長久保は
”いつか私も自分のふるさとが欲しいな。大きくなったらつくろう!”
と夢を描いていました。
横川「恵理さんは小さいころスポーツ万能だったらしいよ」
小宮「想像つく・・・」
« とにかく遊んだ10代から20代 »
1985年~1995年
社会人になり、出版会社などに勤めるなどしていた長久保の楽しみといえば、
お金を貯めてハワイに行くこと!や、山登り、マウンテンバイクのダウンヒル、
キャンプ、サーフィンを楽しむなど、海でも山でも海外でも!!
とにかく遊ぶことに一生懸命でした。
とことん遊んだ長久保でしたが、20代の終わりにさらにとことん遊ぶことを考えました。
そして、究極の遊びは田舎暮らしだ!!と田舎暮らしをすることに。
とある県で始めた田舎暮らしは、想像以上に周りに何もなく、ザ・田舎。
寂しいかと思いきや・・・パラダイス!
その土地の方や、出会った仕事仲間と仲良くなり、毎日遊びまわっていました。
ところが、2年ほど田舎暮らしの生活を楽しんでいた長久保に
突然、親戚から戻ってきてほしいと連絡が。
仕方なく埼玉に戻ることになりました。
小宮「20代後半にさらにとことん遊ぶことを追求・・そんな大人中々出会えないかも。」
長久保「20代で遊びまくったのはいい経験。今の若い子はもっと遊んだほうがいい。」
横川「恵理さんは遊びピカイチだからね」
« 忙しい毎日と出会い »
1995年
パラダイス生活から一転、親戚の経営している埼玉県草加市のバラエティショップの
運営を手伝ってほしいといわれ手伝うことになりました。
化粧品や輸入雑貨などを取り扱うインポートSHOP。
地元のお客様で賑わう、なんでも揃うととても人気がありました。
長久保はさらにもう一つ仕事をすることに。
これもまた親戚の会社の関税の手続き。
お店と関税の手続きと二足のわらじで、日々飛び回っておりました。
このころ高校生の横川も地元のお客さんとしてこのお店に通っておりました。
このお店が横川と長久保の出会いの場所です。
長久保「田舎暮らし時代はパラダイスだったから本当は戻りたくなかったけど、今思えばアロハファームの為だったんだね」
横川「高校生の時にえりさんに海に連れて行ってもらったの覚えてるー」
小宮「この後一緒に仕事するとは思ってなかったんですもんねーすごいなー」
« 那須という土地に導かれる??? »
1998年
相変わらず、忙しい毎日を送っていた長久保に一本の電話が。
電話の相手は、長久保の愛犬HEYちゃん♀の散歩中に出会った方。
※長久保は、以前雑談中に、この方にあなたの夢は何?と聞かれ
”私のふるさとを作りたい”という夢を話したことがあったのでした。
「いい土地をみつけたの、あなたの夢応援するわ。」
いきなりの土地の紹介・・・何とも不思議な展開に戸惑いはありましたが、
長久保はその場所を聞き行ってみることに。
その土地があるというのが栃木県の那須高原でした。
※長久保にとって那須高原は20代の頃によく山登りやキャンプで訪れていた親しみのある場所でした
那須のインターチェンジを降りてメイン通りを走り、ローカルな道へと入って道をクネクネ、
小さな橋を渡っていくと少し開けた場所にたどり着きました。
その場所が紹介された土地。
原野で何もないところですが、背中には那須山、太陽がいっぱい注ぎたくさんの鳥たちがおしゃべりを
しているようで、自然いっぱいのローカルなHawaiiにどこか似ていて、とても素敵な空間でした。
長久保はもともとHawaiiが大好き。この土地を見て、とても気に入ってしまいました。
そして、何もない原野から、自分のふるさとをつくる想像をしてワクワクが止まりませんでした。
なんとも不思議な展開と那須という土地に導かれるように
ここに”私のふるさと私のハワイをつくろう!”と土地を購入することに決めたのでした。
小宮「すごーい!那須に呼ばれたんですねー」
長久保「不思議だよね、HEYちゃんが繋いでくれたんだね。」
横川「確かに夏の那須の雰囲気は少しハワイに似ているかもね」
≪ ふるさとづくりと横川との出会い ≫
2003年
忙しい仕事の合間をぬっては那須へ行き長久保の大好物DIY三昧。
設計図なんて書かなくてもピシッとできてしまうからおもしろい。
那須に買った自分の土地で、私のふるさと、私のハワイ、私の手づくりを
めいいっぱい楽しんだ時代です。
トレーラーハウスの設置、友人のフラガールを招待して踊ってもらうための
ステージも作りました。
お腹が減るのも忘れて夢中で楽しみました。
2004年
当時アパレル系カリスマショップ店員だった横川は体調を崩し、仕事を辞め、
療養していました。
少し体調も良くなってきたころ、近所で働ける場所はないかと探しているところに、
長久保の務める草加のお店を思い出し、さっそく長久保に“働かせてほしい”と頼み、
不思議とすんなり働くことになったのでした。
2005年
長久保に誘われ草加のお店の仲間たちと共に横川も時々那須を訪れ、
長久保のふるさとづくり、DIY等のお手伝いをしていました。
この頃、手が四つあったらいいのにと、
一人でくぎを打つのもつらくなっていた長久保は、
横川に、“ふるさとづくり手伝ってよ”と声をかける。
体調が万全でなかった横川でしたが、那須のいい空気の中で気分転換にと考え
“うん、いいよ”と本格的に手伝うことになりました。
長久保と横川はこれをきっかけにともに行動する機会が増え、
那須に仕事仲間や友人を誘い、リゾートな那須とふるさとづくりを満喫していました。
そんな中、長久保お手製のステージで長久保の友人がフラを踊ってくれることに!
横川「フラを踊る前のお祈りで“チャント”というのがあって、一緒に参加させてもらったの。
みんなと手をつないで輪になるんだけど、お祈りがはじまると全身鳥肌。
何かが自分の中にこみ上げてきて、私もおどりたい!!!って。この後すっかりフラに夢中になった。」
小宮「アロハ唯一のフラガールはその全身鳥肌事件がきっかけだったのですね!」
長久保のふるさと、私のハワイづくりは、
横川のフラによってさらにパワーアップしたのでした。
« 何かが変わった・・・ »
2006年
長久保はDIY、横川はフラに夢中だったころ、
2人のなかでちょっとした変化が起こりました。
仕事が終わると二人で某ファミレスで雑談をしながら夕食を食べることがありました。
ところが、つい先日まで食べていたサラダが、”ん?!なんだこれ”
美味しいと思えず、二人とも同時に、急に食べられなくなってしまったのです。
長久保「何か、消毒のようなにおいを感じて、食べられなかった。
先日まで同じものを普通に食べていたのに。」
横川「まさか二人同時に同じ感覚に陥るとは驚いたよね」
« 食の大切さのはじまり »
2007年
草加のお店では肌荒れなど肌トラブルに悩むお客様が急増。
駆け込み寺のように、刺激の少ない化粧品を求めにくるお客様が増えました。
長久保と横川は自分たちにも何かできることはないかと、
自身でも調べたり、取引先の研修に参加したり様々な勉強をしました。
肌のことはもちろんですが、こころのこと、食べるもの。
多方面から勉強していく中で“最大のケアは食べるものにある”
ということにたどり着いたのでした。
草加のお店でも、勉強していることを雑談の中に交えながら
お客様に伝えるようになりました。
これが不思議とお客様に伝わり、お客様の肌トラブルが改善していく。
その過程をみるうちに、長久保と横川は“食”について
さらに知識を深めたい、追及したい!と思うようになりました。
休みを利用して那須にいけば、いい調味料や素材、美味しいお店を探したり、
横川は率先して、お味噌や梅干しなどの保存食も那須で作っていました。
さらに、近所の方にお願いして家の前に小さな畑を作ってもらい
野菜も育てることにしました。
マイファームではもちろん無農薬、無化学肥料でいろいろ調べて
こだわりの肥料を作ったり。
この頃の実践の中で、食の大切さの中のつくる喜びや、食べることの楽しさ、
を学んだように思います。
長久保「栽培した野菜は今まで食べたことがないくらい味が濃くておいしいし何より愛おしい。
まさに田舎暮らしサイコーって時期だね。」
≪ 生きた醗酵食との出会い ≫
2008年
那須の美味しいものめぐりをする中でイベントに出ていた糀屋さんに出会いました。
店頭でお話を聞いただけですが、生きた醗酵食の大切さに気付かせてもらえる
とてもいい出会いでした。
この糀屋さんとの出会いきっかけに、ホントの生きた醗酵食品を更に勉強し、
草加のお店で、お客様にも家庭でできるホントの手づくり味噌のおすすめや
アドバイスをしたりと醗酵食のすすめをこの頃から拡散していました。
横川「この時は毎日が勉強で出会いで、これはこれで忙しかったなー」
親戚の会社に出入りをしていた長久保は、この会社に勤める小宮に時々自慢の
手作り大根の写真を見せたり、DIY姿の写真をみせたりと会話をするようになっていました。
当時、アロマに興味をもちはじめていた小宮は、取り扱いのある長久保の務める草加のお店に
頻繁に出入りするようになり、お客さんとして横川とも顔を合わせるようになりました。
小宮「やっと登場だー私。恵理さんに教えてもらったアロマにどっぷりハマってしまったんだった」
« ダイナミックに農業がしてみたい! »
2009年
育てたものを食べる喜び、収穫の快感、おいしさを覚えてしまった長久保と横川は
もっとダイナミックに農業を楽しみたい!!
と思うようになる。
那須で出会った知人の紹介で、大きな農地を貸していただけることに。
無農薬、無化学肥料でどこまでできるか挑戦だ!!
ダイナミックに育てるぞ!!
と土づくりから開始、毎日農業のことで頭がいっぱいでした。
農地を貸してくれたのは真っ黒で野性的なS氏。
もともと大工さんでなんでも作ってしまうチャーミングなスーパーマン。
自然の中にあるものを利用して畑の道具にしたり、クワの使い方も教えてくれました。
畑にとどまらず、自然の中で自然とともに生きるということも教わりました。
ダイナミックにやりたいと思うと、なぜかダイナミックな人が現れる・・・(笑)
S氏は都会育ちの私たちに、本物の椎茸を私たち食べさせたい!と、
椎茸づくりもしました。
木に穴をあけて、椎茸菌をトントントンと埋め込む。
あとはじっくり日陰で待つ。すぐに椎茸がポコポコ出るわけないのに、
私たちは畑に行く度に、椎茸が出ているかどうかをチェックをしていました(笑)
でもこの2年後に収穫して食べた原木のしいたけの美味しさは香り、旨み、弾力・・・
みんないまだにあの味を忘れられません。
森に落ち葉をとりにいって畑の栄養にしたり、
普通に生活していたらただの景色でしかないけれど、
自然は全部が宝物なのだと知るありがたい出会いでした。
そして、長久保のハウスを拠点とし、仕事の休みの週末を利用して小宮も参加することになりました。
小宮「しいたけ菌を打ったあの日、“手伝いにきてよ”といわれたのがきっかけ。だったなー」
ついに3人そろった私たちは、手作業で畑を耕し、畝をつくり、
じゃがいもやたまねぎなどいろいろな種類の野菜を育てました。
寒暖差のある那須という土地で、農薬や化学肥料を使用しなくても
採れたての野菜はなぜこんなに美味しいのか、
これをもっとたくさんの人に共有したいと思うようになりました。
※ちなみにこの時はまだ半分遊びもしくは週末のたのしみでやっていました(笑)
小宮「この時期の夏くらいに、名前勝手に決めてたんですよね!」
長久保「そうそう。ALOHAFARM」
横川「この後まさか会社にしちゃうとはねー笑」
« 平山さんご夫婦との出会い »
2010年
那須の宣伝にもなるし、那須の野菜をお客様に食べてみてもらいたい。
だけど、素人同然の自分たちの野菜では頼りない・・
現役の農家さんともお話しする機会もあればいいのに。
と思っていました。
すると、畑の近所の人が地元の農家さんを紹介してくれることに。
いつも私たちにはなぜか仲介してくれるひとがパッと現れるのでした。
ついに、現役の農家さんと顔合わせ。
長久保はいつもの如く熱い想いを話します。
自分たちも農業をしていること、食と健康、食と美容が繋がっていることを
伝えながらお店でお客様に美味しい那須の野菜を提供したいと説明しました。
「規格外なら分けてあげられるよ」
こう言ってくださったのは平山農園の平山さん。
平山さんはご夫婦二人三脚で農業をされている方で、
大型農家ではないけれど、
まだ農薬や化学肥料などが見直されるずっと前から、
減農薬などの栽培方法を試し
那須のコシヒカリ”美米米(うまいべぇ)”を仲間と
ブランド化してつくるなど、
舘ひろし似のとても頭のやわらかい農家さんです。
この時、那須の人間ではない私たちを明るく迎え入れてくれたことに
今でも感謝しています。
今ではお父さんとお母さん呼び、と勝手に本当の家族だと思っています。
この時点では、まだ企業には至ってはいませんが
この出会いがあの小さなワゴンのALOHAFARMの始まり。
規格外野菜の販売からはじまったアロハファームは
草加のお店で人気に。お店の売り場もどんどん拡大。
長久保と横川はお店の営業と平行しながら野菜の準備、販売。
小宮は本業の傍らシールやPOP、メールの作成。
前日のとれたてを農家さんから回収し、
処理をしながら自分たちで袋詰めから値段付け。
朝一番で自ら運転する車にありったけの野菜たちを積んで草加に戻る。
これを1週間に2回行い販売していました。
長久保「寝る暇なんてないし、気づけば朝、はい出発!なんてことも」
横川「よく乗り越えてきたと思うよ」
小宮「ハードでしたね。野菜販売以外にも畑に行ったり保存食づくりや
ケンカしながら味噌づくり、よくやってきたなー」
長久保「真っ暗になるまで畑やったりしたね」
小宮「そういえば当時、まだオーガニックなんて言葉や自然派なんて言葉は
ごくごく一部の人しか通用しないような言葉だったけれど、
二人があの小さなお店で週2回お客様に伝えていたからこその今でもありますよね。」
横川「だんだん人気になるにつれ黒にんにくとも出会ったんだよね。」
長久保「野菜ももちろんだけど黒にんにくとの出会いも大きいよね。」
« みるみる元気になるお客様 »
野菜販売をしていたある日、
これまた不思議な出会いで、本物の黒にんにく取り扱うことに。
何故か、体調が思わしくなかった何人ものお客様が
会うたびに、どんどん元気になっていく!!
”那須のおいしい野菜”に出会ってから、生きる活力が湧いたと
お礼を言いにお店にくるお客様がいたり。
毎日感謝とかお礼でお店があふれていました。
このときに、”お客様の喜びが私たちのエネルギーなんだ”と
那須の野菜と黒ニンニクに気づかされました。
最初は化粧品を買いに来る20代から30代のお客様が多かったお店ですが、
野菜や黒にんにくなどを求める幅広い年齢層のお客様にかかわることができました。
横川「また、野菜は高原野菜でもあるし水でも違うけれど、
とにかく美味しいって評判になっちゃったんだよね!」
長久保「薬事法とかあるからあれだけど、
黒にんにくは数えきれないほどお客様を笑顔にしたよね」
横川「これでまたさらに勉強になったし、食について本格的に勉強したよね」
小宮「お客様の喜ぶ顔をみると、あぁもっと持ってくればよかった・・
と思ったりしていたなー」
≪ もっと野菜を作りたい!!ついに農業拡大!! ≫
那須町にはまだ、耕作放棄地のような場所がたくさんあります。
平山父さんとの出会いから、農業の現状、これからの農業と
たくさん教えていただきました。
その中で那須の為に私たちに何かできることはないか・・・・
と考えました。
そうだ!耕作放棄地を蘇らせてもっと野菜をつくろう!!
お客様もきっと喜んでくれる!!!
と、さっそく農地を紹介してもらい、
人手がなく荒れてしまった農地を、貸していただけることに。
かなり広大な敷地をついに開拓することになった私たちは、
開拓仲間を募りました。
私たちの想いを知り、“手伝うよ!”とお客様やそのファミリーが助っ人に来てくれました。
長い間手を付けていなかったその土地はジャングルのような状態、
みんなが手伝ってくれなかったら
どれだけ大変だったことか・・・。
おかげさまで、綺麗になったその土地は何度も何度も耕し、
その年たくさんブクブクに太ったジャガイモを実らせてくれました。
実はALOHA史上最高の出来栄えでした。。
« ふるさとのピンチ?! »
2011年
野菜販売の為草加に戻った長久保と横川は店頭で
いつものように販売をしておりました。
その日の午後、あの大きな地震がおきました。
那須は震度6強。
埼玉県草加市も相当揺れ、交通も何も全てがマヒ。
みんながそれぞれに異常事態で大変な時期でしたね。
日本中が地震でいっぱいだった数日、高速は止まり、
もちろん那須に戻れるはずもなく過ごしていました。
那須は大丈夫なのか?心配で地元の方に連絡してみると、
テレビでは放送されていませんが水道は止まり、
相当な被害や物資不足になっていることがわかりました。
ふるさとが大変!!わたしたちが行かなきゃ!!!!
一般車は高速には入ることのできない状態でしたが、
奇跡的に物資を運ぶ緊急車両ということで許可が下り
私たちは那須に戻れることになりました。
長久保「奇跡の連続で行けることになるとは!!」
横川「原発の影響も心配されていたけど、何も怖くなかったよね」
小宮「私は当時別の仕事がとにかく忙しく、何が何だか。」
出発当日、長久保と横川は草加のお店の営業をしながら、
どんな物資を持っていくか、相談をしていました。
すると、私たちが緊急車両で那須に戻ると知ったお客様が
お店の中に次から次へと荷物を運んでくるのです。
赤ちゃんのおむつ、何回も並んで買ったティッシュやお水、
まだ開封していない肌着や新品の防寒着、支援金。
私たちにはこれしかできないけど、と
みんな、いつも野菜を楽しみにしてくれている
お客様でした。
あっという間にお店の中はお客様からの物資で溢れかえりました。
長久保「今思い出しても涙がでちゃうよ、感謝しかない」
横川「夕方までこの救援物資は途絶えることなかったよね」
小宮「ガソリンまで提供してくださった方もいらっしゃいましたね」
夜、本業で疲れ切った小宮と合流。
お客様の想いをぎゅうぎゅうにのせて、
緊急車両となった私たちの車は
まだ体験したことのない異常事態の中、
那須へ車を走らせました。
3人とも緊張しているのか終始無言。
いつもとは全然違う真っ暗な東北道を走りました。
道を急ぐお医者様の車やトラック。
邪魔にならないようにと一番端っこを走りました。
車中では、体調不良から復活したばかりの桑田佳祐さんの
アルバムを流していたので、いまでも桑田さんのアルバムを聴くと
この時の映像が鮮明によみがえります。
サービスエリアでは、様々な運転手さんたちが情報交換をしたり
食事をしたり、サービスエリアも緊張感でいっぱいでした。
真っ暗の中、やっとの想いで到着。
真っ先に避難所に必要なものを渡せたら・・・と思い、持っていきました。
ただ夜も遅く預かってもらえず、長久保のハウスに帰り明日に備えることに。
到着したハウスは、暗くてもわかるほどぐちゃぐちゃになっていて、危ないので
電気もつけずに土足のまま上がり、防寒したままベットで眠りにつきました。
長久保「本当にただ事じゃなかったよ。とにかく」
横川「助けに来て助けられるわけにはいかないと思ったよね」
小宮「寒くて寒くてなかなか寝付けなかったな」
夜が明けて、朝いちばんで那須の役場まで行き状況を聞いたり、
物資を収めました。
聞けば那須もかなり被害が出て避難生活をしている方も多く、
震源地付近の他県からの避難者約1700人も受け入れているというお話でした。
なんとかふるさとの助けになりたかった私たちは、那須の仲間に話を聞き、
炊き出しをするとのことでお手伝いをさせてもらえることに。
炊き出しは麹屋さんの生きたお味噌と平山さんのお米で結んだおむすび。
配り終えると、食べ終えた方がやってきました。
“やっとまともな食事ができましたありがとう。”
“家から持ってきたこの炊飯器も良かったら使って!”
贅沢は言えない状況だけれど、ずっとカップラーメンや菓子パンを食べていたから、
なじみの深いおむすびや、温かい味噌汁が身に染みたのだそうです。
長久保「この時、ありがとうなんて言われてしまったけど、こちらの方が、ありがとうと思った。」
それからは那須と草加を何度も行き来し、
何度も役場に必要なものはないかと聞きながら、
行くたびに物資を運びました。
草加のお客様も毎日、お店に救援物資を持ってきてくださいました。
那須の友人にも頼まれ、福島にも直接届けて頂いたりもしていました。
1日1日がどんなに大切で、じつは当たり前の毎日が奇跡の連続で、
生きていることや食べることがどんなに喜びなのかと考える価値観が
ぐるっと変わるような、そんな時を過ごしたように思います。
« 風評被害ときずな »
地震後に起こった原発事故。
那須からの距離は決して遠くない、事故でした。
これからどうなっていくのか、どうしていくべきなのか。
平山のお父さんの家に相談に伺いました。
奥さんは黙々といつもと同じように野菜の準備をしています。
長久保「平山のお父さんがさ、昼間っからお酒のんでるんだよ。
ひとりでね。話かけたら上むいちゃってさ、泣いてるんだよ」
那須も風評被害の影響が。農作物のほとんどが処分、
同じ地域で放射能が検出されれば、検出されていなくても
その野菜は廃棄するしかなく、お客様も那須という名前だけで買わない。
原発の影響を懸念して、これからだって時期に作付けができない。
農家さんとしてはライフラインを失う大きな問題でした。
長久保「この姿をみて、私、ふるさとの応援団になる!と決めたんだよね。だから“お父さん、アロハが全部買い取りますから、作付けしてください”って。ゆっちゃったんだよ」
長久保「私のふるさと守らなきゃ、この人たちを守らなきゃって、
見えない力に動かされたような気がしたな。ピンチはチャンスだからね!」
《 本気で未来は食から 》
長久保と横川が草加に戻りお店の営業をしていると、
朝いちばんでお店に3.11の資料を持ってきた一人の女性が言いました。
「日本は、これは大変なことになりました。
免疫の低い子供から病気になりやすくなります。
本当に大変なことが起こったのよ!!」
この方とは野菜販売がきっかけで出会いました。
実際にご自分でも大きな敷地で畑を耕し自然栽培や保存食づくりを
されている方です。
詳しいことはかけませんが、長きにわたって医学の分野で活躍されていて、
私たちの活動をいつもご夫婦で応援してくださっています。
「あなた達、こんなところでグズグズしている場合じゃない!
日本の伝統食を、醗酵食を、もっと多くの人に伝えなさい!
これは重責ですよ!!」
気づけば先生を囲んでお客様でいっぱいになってしまったお店。
私たちだけでなく常連さんも、真剣に真剣に話を聞いていました。
長久保「この時の先生の言葉で改めて腹をくくって、よし。この仕事をやめよう。
ALOHAFARMという会社をつくろうと準備をはじめたね。」
横川「何ができるかなんてわからないけど、とにかく伝えなきゃって思いでいっぱいだったよね」
アロハファームが、未来は食からというメッセージを
本気で発信するきっかけになったのがこの時でした。
この先約2年、アロハファームの活動の幅を広げながら企業に向けて少しづつ準備をしました。
この後、除染対策として、自分たちの農法の見直しや、ひまわり大作戦に参加。
いろいろなことにチャレンジしました。
2013年
長久保と横川は会社を辞め、
ついに株式会社アロハファームを起業
長く務めた草加のお店は、2013年4月をもって閉店することが決まりました。
開店から21年。
ありがたいことに、たくさんのお客様に惜しまれながらの閉店でした。
そして、同年4月、株式会社アロハファームを設立。
長久保と横川は、休暇もとらずに営業をスタート。
週に1回埼玉県草加市のイトーヨーカ堂内の特設スペースを
お借りして野菜や醗酵食の販売。
以前のお店のお客様も応援で買いに来てくださるようになりました。
そして、メッセンジャーとしての活動も!!ということで、
青山のファーマーズマーケットにも出店。
青山での野菜販売は物理的に難しい為、醗酵食品を中心に持って毎週末出店。
販売というか、宣伝、醗酵食のススメ。
青山では私たちを知っている人なんて誰もいないし、
最初のころは醗酵食なんてだれも興味がなかった。
それでも私たちは何も気にせず、販売というよりも
メッセンジャーとして、とにかく想いを伝えることに専念しました。
”いいものや本物に気づいてくれるお客様は絶対にいる”と
草加のお客様に教えて頂いたから。
横川「不安はなかったけど最初はひどかったよね」
長久保「最初は笑えるぐらいひどかった」
小宮「でもなんか自信あったから気にしてなかったなー」
起業してから1年後本格的に小宮も加わり、
3人での本格的な活動を開始。
起業してからのアロハファームは畑、作業、味噌づくり、
田んぼ、信じられないくらいの速さで毎日が進み、
毎日毎日ジェットコースターにでも乗っているかのような日々。
気が付けばスタッフが爆睡ではなく気絶、通り越せば爆笑と
もう2つぐらい身体が欲しいよねと当時よく言ってました。(いまでも)
2018年
起業から5年。
5年の間にもここには書ききれない、事件や出会い、別れ。
内容の濃い月日を過ごしてまいりました。
そして、特定の店舗を持つことなく、スタッフは変わらず女性3名。
那須高原の仲間、お客様、アロハにかかわるすべての仲間に
いつも支えられながら、
埼玉県草加市、東京都渋谷区、那須高原この3か所で
株式会社アロハファームは“未来は食から”を伝える
メッセンジャーとして活躍をさせていただいております。
つづく